スーパーNOVAのモータースポーツへの参入は1991年にさかのぼる。スーパーNOVAは1991年に「スーパーNOVAレーシングチーム」を創設し、全日本フォーミュラ3選手権(以降、全日本F3とする)に参戦した。スーパーNOVAは競争が激しいことで知られる全日本F3において、1991年から1993年までのわずか3年間のうちにフロントランナーとしての地位を獲得した。

 

 
1994年にはスーパーNOVAは活動の舞台を海外へと広げ、ヨーロッパを中心に開催されるFIA国際フォーミュラ3000選手権(以降、国際F3000とする)に参入した。デビッド・シアーズ率いるチームは参戦1年目からタイトル争いに加わる大健闘を見せた。この年のチャンピオン争いは終盤までもつれ、4人のドライバーが最終戦マニクールでタイトルを賭けて戦うこととなった。激戦の末、スーパーNOVAのドライバー、ビンチェント・ソスピリ(イタリア)は惜しくもシリーズ4位にとどまったが、参戦1年目の駆け出しチームとしては驚くべき好成績を修めたのである。

1995年、スーパーNOVAは国際F3000参戦2年目にしてシリーズを完全支配するにいたった。2人のドライバー、ビンチェント・ソスピリ(イタリア)とリカルド・ロセット(ブラジル)が操るレイナード95Dは全8戦中、5戦のチェッカーフラッグを勝ち取った。最終戦を残す時点ではソスピリ、ロセットとチームメイト同士がシリーズタイトルをかけて争う展開となり、まさにスーパーNOVAの独壇場となった。シリーズを通じて、他のチームが26ポイント以上上げられなかったのに対し、スーパーNOVAはなんと72ポイントも獲得した。



1996年、またもスーパーNOVAは終始シリーズをリードすることになる。ケニー・ブラック(スウェーデン)は優勝4回、表彰台7回と常にタイトル争いの最前線にいた。最終戦にもつれこんだタイトル争いで、ケニー・ブラックはトップでチェッカーフラッグを受けたが黒旗失格となり議論を巻き起こした。マルコス・グエイロス(ブラジル)は5位でシーズンを終えた。ケニー・ブラックはタイトルを逃したものの、誰の目にも真のチャンピオンはケニー・ブラックであった。



1997年、スーパーNOVAはタイトル奪取をチームの使命としてシリーズに望んだ。この年のレース優勝者数は6人にのぼり、タイトル争いはまたもや終盤戦にもつれこんだ。シリーズチャンピオンをめぐり、6人のドライバーが1ポイントを争う熾烈な戦いとなったが、リカルド・ゾンタ(ブラジル)が第9戦ムジェロでシリーズ通算4勝目を上げ、見事タイトルを獲得。スーパーNOVAに再び栄冠をもたらした

 

1998年もポールポジション9回、表彰台9回とスーパーNOVAにとってまたもよい年となった。フアン・パブロ・モントヤ(コロンビア)は最終戦ニュルベルグリングでタイトルを決めた。モントヤは常にポイント争いをリードしていたが、この年も最終戦を終えるまで王座を宣言することはできなかった。最終戦の結果もまったく予測不可能だったため、モントヤがフィニッシュラインを通過するまでチームの興奮が収まることはなかった。

 

1999年シーズンはスロースタートとなったが、ジェイソン・ワット(デンマーク)はシリーズ後半にかけて実力を遺憾なく発揮し、終盤2戦をポールポジションから圧勝した。チームメイトのデビッド・サレンズ(ベルギー)も幾度となくポイントを獲得し、チームとしてシリーズ2位という好成績を収めた。ドライバーのタイトル争いにおいてもジェイソンが2位を獲得した。


 
スーパーNOVAは英国ノーフォーク州グリストンにある1万1,000平方フィートのレースファクトリーを拠点に活動を繰り広げている。デビッド・シアーズのリーダーシップのもとに15人の常勤スタッフが働いている。シアーズがチーム運営を統括し、アンディ・ロシェとロブ・クレスウェルという2人のレースエンジニアが技術面での指揮を担当している。ザイテックエンジニアリングは3リッターV8エンジンを供給している。